School days
工作実習 テスター追加 07 May, 2006 1:53:13
FM レコパル 1980年頃のお話
FMエアーチェック専門誌
放送部が掲載された
小学館編集部にわが放送部を私がアピールした。すると小学館の編集者が放送部顧問(電子科)と知り合いで取材(昭和55年1980年8月21日)されることになった。

放送部顧問は建築科、電気科、電子科に複数顧問の教諭がいて、部員は生徒会役員が多く他の文化部(短波部、ブラスバンド部、鉄道研究部、郷土研究部など)にも参加していた。校内では野球部に続く勢力であった。

H23年神工祭
放送部 「モシ ラジ」
博物館並みの資料を有していたが、校舎建替えとともに多くが行方不明。
放送室 東芝製真空管音声調整卓
体育館放送室

真空管のアンプ(左下同型写真)だった体育館のアンプ。1年生の3学期に卒業生の寄贈品として、松下通信機製のトランジスタ製に更新された。放送部の先輩はその多くが生徒会役員で放送設備の更新に尽力いただいた。

これに伴い、白木のキャビネットを新調。放送部顧問の建築科教諭と生徒の作品。私はトンゾイレスピーカーのユニットを当時松下通信最新ユニットに全交換しマイク、スピーカーケーブル類を張り替えた。
トリオPA−30モノラル(6L6G、PP)出力管は6L6G、PP、前段は12AX7、整流管は5U4GB

朝礼や始業式、終業式、時には講演会のPAをこのアンプで行った。
発熱し臭くなってくるのでこのようにボンネットを外し下敷きで扇ぐのが新入部員の仕事でもあった。

講演会には、阿部進さん(カバゴンで有名な教育評論家)や土門正夫さん(NHKスポーツアナウンサー)からお話を頂いた。いづれも母校卒業生。私はその後、プロ野球のラジオ中継の仕事で土門さんと幾度もご一緒した。私が後輩と知ると講演会の事を覚えていて「話を聴かないやつらがいたと」叱られた。川崎球場、後楽園球場が懐かしい。

マツダ A型 ベロシティーマイクロフォン(1937)
マツダ A型 ベロシティーマイクロフォン

無謀にもAベロ(左写真)を体育館PAに使ったこともあり(土門さんの講演?)ハウリングマージンが無くてひやひやしたたのを覚えている。この頃はコストパフォーマンスに優れたフォステックスのマイクを多用した。

JA3AEB マイクロフォン
ラジオ入力切替スイッチが中央部に設けられているタイプもある。どちらだったか覚えていない。
KTHS回路試験器 KANAGAWA TECHNICAL HIGH SCHOOL


 
ハトメによる回路基板、分流抵抗器製作さらに文字盤のアルミパネルの表面加工、フォトエッチングから文字色付けまでを行う。

文字盤のアルミパネルは、工業用クレンザーで表面の油分を落とし同時にナシ地研磨処理する.

アルミ板にフォトレジスト(感光性樹脂)を塗布する.吸盤付きハンドドリルにアルミ板を取り付けレジスト液をアルミ板にたらし回転させてムラなくフォトレジストコートし電気コンロで乾燥させる.

フォトマスク(文字パターン)をアルミ板上のフォトレジストに転写する、紫外線(アーク灯)を用いて密着露光を行う.

文字になる部分のレジストを現像液で除去し、エッヂング液(第二酸化鉄溶液)で文字の部分のみエッヂング(溶かす).

エッジングした溝にラッカーで流し込み着色(電圧、抵抗は黒、電流は赤)し、最後にクリアーラッカーで表面保護塗装.

JIS2.5級 英文学校名入りの特注メーター
TYPE MR−65 CLASS 2.5
JIS C−1102



 
ハトメを使った基板に抵抗をハンダ付けしている
右見切れているのがマンガニン線をカットアンドトライで巻いた分流抵抗器

マンガニン線(銅マンガンニッケル線)は、耐食、耐酸化性が乏しいので、防湿、耐酸化塗装をして用いることが望ましい。非磁性である。一般用抵抗材に使用される。 150℃まで用いることができる。抵抗の温度係数と対銅熱起電力が小さい。ろう接性良好。
   

創立90周年記念はがき
東横線から良く見えた校門

神奈川県立神奈川工業高等学校(かながわけんりつかながわこうぎょうこうとうがっこう

東急東横線東白楽駅から徒歩3分という好立地にある。

「かなこう」または「じんこう」という愛称で親しまれている神奈川県立神奈川工業高等学校は、明治44年(1911年)に開校した、県下第1号の工業高校。今年、創立90周年を迎える伝統校で、2万5千余名の卒業生を送り出し、日本の工業界を支えてきた。
平成23年 10月29日、30日

神工祭 

100年の歴史 〜未来への架け橋〜

NHK放送博物館にて撮影
高柳健次郎 たかやなぎ けんじろう
日本のテレビ技術の開拓者。世界標準のVHS規格の策定にも影響を与えた。1926年(大正15年)12月25日、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。世界初の電子式テレビとテレビ受像ブラウン管の方式を発明。

1921年3月(22歳)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所電気科を卒業し、1921年(大正10)から新任教師として神奈川県立工業学校(現在の神奈川県立神奈川工業高校)の教諭となった。

1923年(大正 12)年初の頃、「有線の電話で声が伝わるのならば、顔や姿も伝わって見えるようになるのではないか。いや、ラジオ放送が遠くから無線で声を送れるのならば、映像だって無線でやれる理屈ではないか」と考え、これに「無線遠視法」と名づける。

電子式テレビの構想は、神奈川工業高校での勤務時代に培(つちか)われたと言われているが、授業より研究に傾注して問題になった.1924年(大正 13)浜松工業高等学校助教授となり(今の静岡大学工学部)に研究の場を移し本格的にテレビの研究を開始したと聞いている。

194年(昭和 16)12月、太平洋戦争勃発。テレビ研究禁命令。海軍技研電波研究部技師(特命事項少将待遇)としてレーダーや電波兵器の研究に徴用される。

1945年(昭和 20)8月、終戦。NHKに戻ってテレビの研究を再開。海軍で一緒に研究をしていた青年士官のうち30数人のNHKへの採用を決めていたところ、GHQから一切の研究禁止、軍部に協力していた者の公職追放、NHKへの復職禁止を通告されビクターへ。

http://www4.big.or.jp/~teruichi/shortessay/kkkk/ より
中庭から放送室
ひさしに出てケーブルを張ったり悪戯をした。

二渓祭(文化祭)
放送部 放送博物館

体育祭 名物 相撲体操やりたくなくて放送室に逃げた

ベースボール・マガジン社「相撲」2003年11月号より
恩師の思い出
 私の時代の校長は戦車部隊、電気科の先生は戦車隊長、電子工作の先生は満州放送協会
(JQAKなど)の放送技術者、恩師横山先生(放送部顧問)は、日本電気(NEC)で電探
(レーダー)や高出力拡声器(物凄くデカイ音のするスピーカー)を開発していた。
 
 ラジオ関東(現RFラジオ日本)で県内の高校野球部を同じ学校の放送部が紹介する番組(放送開始時刻直後の番組早朝5時台)があり、昭和55年1980年5月5日神奈工放送部が制作した番組が放送された。
 制作、技術は私が担当し、アナウンサーは産業デザイン科の後輩。今は無き老松町の本社に直接テープを持参した。ラジオ関東の番組担当から制作技術は高く評価されたが内容については厳しい指摘を受けて放送番組の難しさを思い知った。
甲子園をめざして! エンディング部分 校歌斉唱〜 再生 音量注意!
 
校歌について
 大正11年4月23日校歌を選定 校歌作曲者 岡野貞一 1878-1941 音楽教育家・作曲家。「春がきた」「春の小川」「故郷」「朧月夜」「紅葉」「桃太郎(桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた)」などを作曲。作詞 浦井喜久道 歌詞が時代を感じる。率直に言うと難しい。
神奈川工業高校  神奈川工業会 神奈川工業高校放送部
検流計

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可動コイル形の検流計
検流計(けんりゅうけい、ガルバノメータとも)は電流を検出し、測定するための機器である。コイルを貫流する電流に応じて、指針(ポインター)が回転して偏向を作り出して円弧を通して測定量を示すのは電気機械変換器(トランスデューサー)である。